連載「じゃない方のたまご。ラーメンと固茹で玉子の幸福な関係」#3
たまごはどこにいたのか?
ラーメンの近くにあった、とした玉子。それはどこにあったのか。
屋台である。
ラーメン屋台は江戸時代の夜鳴きそばをモチーフにラーメンに転用、大正の後期から昭和初期から見られるようになるが、その後全国に広がっていくことになる。その中でも九州(福岡)、愛媛、香川、和歌山、富山、愛知県といった地域ではラーメン屋台におでんが併設されていた。今でもその名残は店舗方になったお店にも残っているが、そこには当然出汁で煮込まれた玉子があっただろう。
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おでんの具材である玉子は、定義上、「出汁で煮込まれた固ゆで玉子」である。これは、機能的には一種の「味付け玉子」に他ならない。
ここからは推測になるが、屋台という現場レベルで非公式な、しかし遊び心が生み出した進化があったのではないだろうか。つまり、客からのリクエスト、あるいは店主自身の気まぐれで、おでん鍋の中から玉子を取り出し、そのままラーメンの丼に移し入れる—。このような光景が、かつての屋台で繰り広げられていたのかもしない。
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宮城県仙台市にある屋台[大分軒]のおでんとラーメン
この屋台での実践は、公式な歴史には記録されない、草の根レベルでの「玉子をラーメンに入れる」というアイデアそのものを大衆に広める文化的架け橋としての役割を果たした可能性がある。おでんの玉子は、ラーメンの味玉へと至る進化の過程における、知られざるミッシングリンクだったのかもしれない。
そして、丼の顔として、最初からゆで玉子が入ったラーメンが登場する。1961年に開業したかの東池袋[大勝軒]である。特製もりそば(つけ麺)で有名なお店だが、系譜などはここでは割愛する。この大勝軒の創業当時のメニューには、タンメンやカレー中華などとともに「たまごそば」というメニューが存在していた。
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東池袋大勝軒創業時のメニュー
このメニューが実際どんなものだったかは、創業者の山岸一雄さんが亡くなっているため不明だ。大勝軒のルーツにあたる丸長のれん会の会長坂口光男さんに、このメニューについて尋ねると、ハッキリはわからないが、という前置きした上で、おそらくゆで玉子を入れたメニューだったのではないかとのことだった。
山岸さんはつけ麺の父として広く知られるが、ベースにあるのは、「ラーメンでお腹いっぱいにする」価値を最大化することで、それを顧客サービスとした人だったように思う。その上で栄養もたくさん摂ってほしいと考え、玉子はその役割にはピタリとハマったのだろう。常連への顧客サービスとして、餃子や玉子を丼の底に沈ませるサービスも有名なエピソードだが、いずれどの中華そばにも半玉のゆで玉子入るようになる。さらにゆで玉子を追加する “ゆでもり” や生卵をもりそばと絡めた “もりなま” というメニューもあった。
単純な美味しさに、その時代に求められたものが掛け合わせる。その姿に合致したのが東池袋大勝軒であり、あの大行列の理由にも必然性があったように思える。
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六会日大前[豪快]のらーめん
お腹いっぱいに、栄養のために、という流れにより、ラーメンに乗るようになったたまごたち。しかし、そのたまごたちが今度は別の意味を持ち始める。それは彩り。ラーメンは先にも書いたように、メンマとチャーシューとネギというのが基本構成だ。ナルトや青菜が乗るのは地域による。つまり、茶色い地味な一杯。それがラーメンだった。そこに黄色と白という鮮明な色味が入ることでラーメンはグッとチャーミングなものになる。時代に求められるもの。それは当然、時代の変化とともに変わっていく。このたまごの色味がラーメン人気をより勢いづけていくことになるとは山岸さんも予想しなかっただろう。

- Ramen Archiver
渡邊 貴詞 / Takashi Watanabe
IT、DXコンサルティングを生業にする会社員ながら新旧のラーメンだけでなく外食全般を食べ歩く。note「ラーカイブ」主宰。食べ歩きの信条は「何を食べるかよりもどう食べるか」
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