連載「名店のシグナル〜 一段上の食べ歩き論 〜」#3

逆算のビール 中華そば前で舌を研げ


Takashi WatanabeTakashi Watanabe  / Feb 28, 2026

3回は、ラーメンを食べる「前」の「間(ま)」について考えてみたい。

本来、ラーメン専門店は大衆食の中でも、サッと入り、提供され、食べ、そして店を出るという、ファストフードに近い立て付けの存在であった。だが、ラーメンはその歴史の中で多様化を遂げ、今や様々な楽しみ方が可能となっている。行列は記帳制や予約制へと変わり、一度にわずかな杯数しか作らず、ゆっくりと間をおいて提供する店も増えた。趣向を凝らしたメニューを前に、食べる側も一計を案じ、思考しながら味わう必要があるなど、店での時間の過ごし方も変容してきたのである。

つけ麺の前にそばつゆや塩で麺を楽しませる店も出てきた

しかし、よくよく考えれば、その多様性が生まれているのは主に提供(店)側である。こと日本においては、たとえラーメンのあり方が変わろうとも、提供されれば忽(たちま)ちのうちに啜(すす)り、サッと店を後にするのが伝統的な美学だ。その限られた時間の中で最大限の悦楽を引き出すことこそ、食べる側に課せられた使命であり、喜びでもある。

伝統といえば、日本蕎麦には「蕎麦前(そばまえ)」と呼ばれる文化があることは広く知られている。「蕎麦前」とは、広義には蕎麦屋において蕎麦を食す前に酒と肴を嗜む行為を指し、狭義にはその際に供される酒肴そのものを指す言葉だ。この風習の誕生には諸説あるが、ガスや電気のない時代の蕎麦屋では、釜の湯を沸かすのにも今より遥かに時間がかかった。蕎麦を打ち、湯を沸かし、茹で上げる。その「待ち時間」を埋めるために蕎麦前は誕生したと言われている。

日本蕎麦の伝統的な蕎麦前

ゆえに酒の肴には、板わさや焼き海苔など、蕎麦の種物(具材)を転用したものが用いられた。せっかちな江戸っ子は、酒を嗜みつつも、ひとたび蕎麦が茹で上がれば、それをサッと手繰って店を出る。滞在時間が限定的であったからこそ、その時間を有意義にするための工夫を凝らしたわけである。

この蕎麦前を現代のラーメンに置き換えた「中華そば前」とでも呼ぶべき小さな文化が、今、静かに育っている。もちろん、町中華でビールと餃子をやり、一品料理を突く流れも一興だが、専門店におけるゴールはあくまで「麺をサッと食べ、サッと出る」ことに集約される。だからこそ、限られた時間をいかに有効に使うかという「知恵」が重要になるのだ。

そしてこの作法は、茹で時間も盛り付けも通常より手間を要する「つけ麺」において、より強い親和性を持つ。まさに蕎麦の作法と同じである。麺が出てきたら、迷いなくその喉越しを堪能したい。ならば、ビールや酒は麺の提供前に飲み干し、準備万端で「そのとき」を迎えたいものである。

もちろん、ビールを頼むと「麺は少し後でお出ししましょうか?」と、ゆったりとした時間を許容してくれる店もある。それはそれで、店の厚意に甘えればよい。ただ、ここではあえて伝統的な、茹で上がりの時間を逆算して楽しむ「中華そば前」の流儀を紹介したい。

ひとつの店を例に挙げよう。
そこは絶えず行列の絶えない名店だ。ようやく順番が巡り、席について注文を入れる。

「つけめんとビール、お願いします」

ビールはすぐに供される。肴(あて)は味玉か、チャーシューか、あるいはメンマか。だが、それほど量は必要ない。アテがあるだけでいいのだ。すると店主から、小皿に少量のチャーシューとメンマ、ネギが載ったものがサービスで提供される。あぁ、これでいいのだ。

眼の前で調理する臨場感を眺めながら

酒は多く飲めばよいというものではなく、一本のビールにすべてを賭ける。それが茹で上がりを待つ時間にちょうどいい。確実にこの後、「つけ麺」という至福が訪れる。そのプロセスを視界に収めながら待つビールは、殊更(ことさら)旨い。小さなグラスになみなみと注ぎ、最初の一杯をグイと飲み干す。体に電気が走るように、冷気が全身に行き渡る。肴はそのまま啄(ついば)むもよし、卓上の辣油や豆板醤で自分好みに調律するもよし。

気持ちが安らぎ、心地よい浮遊感に包まれるが、忘れてはいけない。こうしている間にも、自分が頼んだ一杯は着々と準備されているのだ。心の中の砂時計は、どこを指しているだろうか。

店に入る瞬間から、周囲の状況を把握しておくのが鉄則だ。まだ提供されていない客は何人いるか。自分の前に入った客は誰か。仮に未提供の客が自分ともう一人だとすれば、店主が今作っているのは、その客の分か、あるいは自分の分を含めた二杯分か。ビールを楽しみつつも、厨房の動きを注視する。今まさに調理が始まった丼は二つ。自分の分も調理に入ったと察すれば、飲み進めるペースを調整し、フィニッシュへと向かう。

ネギやラーメンのタレ、辣油をちょっとかけてくれるのが嬉しい

いよいよ麺が仕上がるその直前、ビールを飲み終え、スッと空き瓶と小皿をカウンター上段に上げる。店主にウインクこそしないが、「準備はできている、最高の状態で受け止めるぜ」という無言の交信。このスマートな立ち居振る舞いこそが、あなたを単なる客から、この小さな劇における不可欠の「キャスト」へと変えるのだ。

「待つ」という悦楽は、アルコールを通して一時的に感覚を覚醒させ、舌を鋭敏にする(ような気にさせてくれる)。より一層、ラーメンを美味しく味わうための「逆算の算段」なのである。

ラーメンは美味しい。だが、それをさらに美味しくするための準備や演出を、自分自身で手掛けてみてはどうだろうか。舌を研ぐのは、決して知識や蘊蓄を深めることだけではない。自らの感性を、その一杯のために研ぎ澄ますことなのである。

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