連載「低気圧の日のコーヒーはおいしい」#6
夜の港区、ひとりプラネタリウムとなか卯の牡蠣とじ丼
つい先日まで「港区OL」だった。
変な言葉だなと思う。つまりは「港区にある会社に勤務するサラリーマンだった」というだけなのに、「港区OL」と書いた途端、記号のような、概念のような、おかしな言葉になる。
これから書くのは、港区OLが港区で過ごした、ある冬の休日のこと。
多くのひとが思い浮かべる「港区OL」がどうであれ、これは n=1 のリアルな「港区OLの休日」なので、文句は受け付けない。ちなみに、ホテルでのアフタヌーンティー女子会は登場しない。
その週は例にもれず忙しさに飲み込まれそうで、火曜くらいからは「どこか広い場所でぼうっとしたい」という気持ちを抱えながら、深夜の日比谷線に揺られていた。
そして迎えた週末、わたしは夜の港区へ繰り出した。
“夜の港区”と聞くと、麻布とか六本木とか、そういう場所を思い浮かべるひとが多いだろうけど、広い場所でぼうっとしたい夜に、そんなエリアへは行かない。
向かったのは、神谷町だった。
そもそも、休日の東京で「どこか広い場所」を探すのはむずかしい。代々木公園や新宿御苑みたいな大きな公園もあるけれど、そこまで辿り着くのに都会の喧騒を通らないといけないから、ぐったりしてしまう。じゃあ近所のカフェでゆっくり…と思っても、同じことを考えているひとたちで席が埋まっている。
そんなときは、夜の神谷町がぴったりだ。
神谷町は六本木と虎ノ門のあいだにあるビジネス街で、両隣のエリアよりギラギラしていない。平日こそサラリーマンで賑わうけれど、週末になればしんと静かになる。人気のない、よく整備された道路。桜田通りを歩くのがおすすめだ。東京タワーがよく見えるから。休日のがらんとしたビジネス街は寂しいけれど、東京タワーが視界に入るだけで、少し華やかな散歩道になる。東京タワーに近づき過ぎると観光客が増えるので、一定の距離を保ちながら、あてもなく散歩をする。
というわけで、この日もわたしは夜の神谷町を訪れた。
まずは桜田通りをふらりと散歩して、それからもうひとつの、とっておきの“広い場所”——「港区立みなと科学館」のプラネタリウムへ向かった。
疲れたとき、わたしは広い海を見たり、星空を見たくなる。都会の真ん中に海はないけれど、プラネタリウムへ行けば、いつでも広い星空を見上げられる。都内には大きくて最新設備を搭載したプラネタリウムがいくつもあるけれど、ひとりで行くには少し華やかすぎる。その点、「港区立みなと科学館」のプラネタリウムは、こじんまりとしていて、静かに星空を鑑賞できる。本当はだれにも教えたくない、お気に入りの場所だ。
この夜は「アロマプラネタリウム」というプログラムの日で、柚子の香りに包まれながら、ぼんやり、のんびり、思う存分、星を見上げた。ゆっくり呼吸をしながら、やさしい暗闇と星の光に身を委ねる、静かな時間。
ベテルギウス、スピカ、シリウス、プロキオン、ポルックス、リゲル。星空の解説に耳を傾けながら、冬の一等星を探した。こぐま座。こいぬ座。おおいぬ座。きりん座。冬の空には動物もたくさんいた。
プラネタリウムを出る頃には、栄養不足だった心が、すっかりふわふわになっていた。
あとは、お腹を満たすだけ。
「港区立みなと科学館」のプラネタリウムのあとは、すぐ近くの[なか卯]に行くと決めている。そして、季節限定の、ちょっといい丼ぶりを頼む。丼ぶりのチェーン店は席の間隔が狭いことが多いけど、神谷町の[なか卯]は、店内が広々としていて居心地がいい。
この日は、期間限定の「牡蠣とじ丼」にした。こんなの、美味しいに決まっている。運ばれてきた丼ぶりと向き合い、ただもくもくと食べる。ぷりぷりの牡蠣、ふわふわの卵、熱々でつやつやの白米。完璧な組み合わせを噛み締めながら、「休日は素晴らしいな」と思った。お腹いっぱいになったあと、また少し散歩をした。
これが、n=1の港区OLのひとりで過ごす休日。
がらんとした週末のビジネス街で東京タワーを見ながら散歩をして、ひとりプラネタリウムで星空を見上げ、最後になか卯で牡蠣とじ丼を食べる。素晴らしいコースだと思う。さらにここに「podcastを聴きながら二、三駅分歩く」や「レイトショーでポップコーンを抱えて映画を観る」などアレンジを加えて、もっとリッチなコースにすることもできる。
最後に、もしこれを読んで「同じコースを巡ってみよう」と思われた稀有な方がいたとしたら、その方へ。
がらんとしたビジネス街に着いたとき、ふと「何をやっているのだろう」と我に返る瞬間があるかもしれないけれど、きっとお腹がいっぱいになる頃には「こういう夜もいいな」と思えるから、ぜひ一度お試しを。
わたしはもう「港区OL」ではないのだけれど、あのとっておきのコースだけは、これからも時々訪れたいと思っている。

- Marketer・Essayist
草間 柚佳 / Yuka Kusama
神奈川県逗子市出身。フリーランスでマーケティングと執筆の仕事をしている。お蕎麦とアイスと犬が好き。2024年、日記本『すくいあげる日』を個人制作。noteで日記やエッセイを更新中
IG @_yukakuu02
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