連載「旅とインド料理」#6

アリ、豚、ハマチ…。3つのモダン・インド料理


Curry PhilosopherCurry Philosopher  / Feb 3, 2026

もともと紡績工場だった建物を改装した、やたら天井の高いムンバイの高級レストランで食事をした。次に運ばれてきたひと皿は、なにがなんだかわからなかった。

赤い米で作った細長いニョッキのようなものが炒め合わせられている。そこにウェイターが白いソースをかけてくれる。次にその上にトッピングされたのはアリだった。小魚のようにも見えるが、どうみても昆虫である。

インド料理でアリ?驚いているとスタッフはこう続けた。
「この一皿はチャッティスガルのアーディヴァーシー(山岳部先住民族)の料理を参照しています」

おそるおそる口に運んでみる。まず鼻先から香るのは揚げ玉ねぎの香ばしさ、歯の先に返ってくるファラ(米で作ったパスタ)の弾力。もったりしたインド産の白ワインを使ったソースのあとに鋭い酸を感じる。これは蟻だ。蟻酸が確実に料理を美味しくしている。インドでは昆虫食のイメージがほとんどないが、チャッティスガルでは「チャプダチャトニー」などと呼ばれる蟻を潰して香辛料を混ぜたものがよく作られており、ご飯のおかずなのだという(調べると、ゴードン・ラムゼイなど海外のシェフが食べている動画も見つかる)。

…と、少し小説風に書いてみたがこれは実際にMasqueで食べた料理の体験をもとにした描写だ。そこには驚きと少しばかりのエキゾチシズム、それから確かな美味しさがあった。

「インド素材の新発見」を謳ったMasqueは、インド自体の多様な文化を「内なる異国」とみなし食材を収集し、物語を通じて料理を成立させる。その独自のアプローチによってインドを代表する「モダン・インド料理」の一角となった。ムンバイは都会だ。そこで生まれ育った人々は常に新しい食を求めている。

既存のインド料理にはないアプローチをとり、インド料理の境界を広げ、揺さぶる料理たち。これらはどうやって作られているのだろうか。そもそもこれはインド料理なのだろうか?

それをもっと知りたくて、僕はムンバイのファインダイニング「Masque」にインターンとして入り、現場で何が起きているのかを観察し、修士論文を書きあげた。

今回はそんなモダン・インド料理の話である。

キッチンの中から

インドの、特にヒンドゥー社会では宗教やカーストに基づく食の規範が根強く、外食産業の発展は近年まで限定的だったと言える。異なる背景を持つ人々が外食の場で「同じテーブルを囲む」ことは、簡単ではない場面も多かったのだ。

現代でも2~3割の人々は完全なベジタリアンだと言われるし、肉を食べる人たちでも毎日食べているわけではない。同じ社会にいてもそうした人々が同じテーブルを囲むためにどう対応しているのだろうか。

キッチンの中には大きなホワイトボードがあり、毎日のテーブル情報がすべて書きだされている。そこをみると、客の注文は想像以上に細かく指定されている。たとえばこんな感じだ。

6人客テーブル:
・4人ベジタリアン(うち1人マッシュルーム抜き、にんにく抜き、玉ねぎ抜き、パパイヤ抜き、パイナップル抜き、MSG抜き。1人は乳糖不耐症。1人はアボカド抜き)
・2人ノンベジタリアン(1人は豚肉抜き)
・誕生日ケーキ

ゲストには予約時に丁寧に確認がなされ、実際にはこれ以上に細かな注文がつくため、提供される料理はパズルのように常にカスタマイズされている。インドは誰もが何かを食べられないことが前提で回っている社会だ。日本にいるとアレルギーさえなければ残さず全部食べなさいと言われるのが普通だから、そもそもの発想が違う。

こうした禁忌は、料理の組み立ての構造に最初から含まれている。禁忌対応はサービスの現場での優しさではなく、レシピ以前の設計なのだ。たとえばMasqueでは豚バラ肉を燻製したバーベキューポークがシグネチャーディッシュとして数年の間名物料理となっているが、当然ムスリムをはじめ食べられない人が多く存在する。その場合はチキンに変更したり、ベジタリアン向けにはさつまいも、根菜が食べられないジャイナ教徒にはアボカドに変更するなどの対応がされる。主菜や付け合わせは柔軟に取り替えられるのだ。

 牛肉を避ける人がいる。豚を避ける人がいる。にんにく・玉ねぎを避ける人がいる。乳製品がだめな人もいる。つまりここでは「全員が同じものを食べる」ことが、そもそも前提になっていない。だからMasqueの料理は、唯一の正解としてではなく、条件に応じて成立するような複数の正解として組み上げられていると考えたらいい。

こうした観察を経て、インドにおける「モダン」というのは奇抜なことをするのではなくて、新しいものを食べたいという都市のフーディーたちの欲望に、抑制の中で最大限に応える姿勢や技術だと理解するようになった。

ヒマラヤンベルトの再解釈

ムンバイという都会の中心から、あえて山へ離れていく対照的なモダンもある。ヒマラヤの山奥にあるレストラン「NAAR」は、Masqueの共同創業者で初代ヘッドシェフだったPrateek Sadhuが独立して開いた店だ。

NAARが主題にしているのはシェフのルーツでもある、カシミール、ラダック、ヒマーチャル、北東部からネパールに連なる「ヒマラヤンベルト」の食文化だ。といっても、単に各地の料理をピックアップしてまとめているわけではない。厳しい寒さの山岳部において、人々が生き延びるための技術として発達させてきた保存や発酵の技術を料理の中心に添えている。

素材も徹底して「ハイパー・ローカル」に寄せられていて、近隣の畑のもの、周辺で採れるもの、自家製のものが軸になる。魚は近くのトラウトに限定し、串にはその辺で折ってきた松の枝を使う。

都市にいるゲストの多様な禁忌に合わせて柔軟に運用するMasqueとは違い、NAARはまず場所そのものにコミットすることを客に求める。空港のあるチャンディーガルからのアクセスは大変に悪く、山道を数時間車で走らねばならない。その代わりラグジュアリーなリゾートホテルも併設されており、雲海が見える天国のような場所だった。

料理の感触も、分かりやすい「カレー」からはだいぶ距離がある。たとえば、大根の漬け汁のような発酵臭と酸が効いた液体に、トラウトと辛い油、そして白いふわふわしたムースが同居する皿が出てくる。白い泡はPhaphという酵母を利用しているという。一言で言ってしまうと辛子高菜っぽい。インド人の同行者はこのたくあん臭が少し苦手だと語った。

いったい何の料理なのかわからないがこれも「インド料理」なのだ。長野で冬を越すために祖母が毎年漬ける野沢菜やたくあんの風味がフラッシュバックする。厳しい環境での保存と発酵の必然なのだ。素材を新しく探し出して新しさを演出するのではない。ここで起きているのは必要から生まれた技術の再提示だ。

Masqueのテーマである「インド素材の新発見」が、国内の少数派の食を「内なる異国」として採集し、大都会の華やかなゲストに対して客席で成立させる運用の技術だとすれば、NAARは別のやり方でインド料理の地図を書き換えているのではないだろうか。

従来の「インド料理」の中心といえばホテルやレストランの外食産業が作ってきたわかりやすい北インド料理だった。勢力の伸長に伴って南インド料理やベンガル料理などもその争いに参加してきた。そういった中から今まで周縁に置かれてきた山の食をあえて主題として前景化し、中心テーマへ引き上げる。その意味でNAARが揺さぶっているのは、料理の境界というより、インド料理の勢力図そのものだ。

ロンドンのモダンインド料理店BiBi

第三のモダンはロンドンにある。モダン・インド料理の潮流はむしろインドの外で始まっており、ロンドンはその中心的な場であった。世界を代表する評価装置であるミシュラン・ガイドはインドには進出しておらず、ミシュランの星をとったインド料理店という意味ではロンドンのレストランが最初であり、インド料理の高級化はロンドンから始まったのだ。

個人的な注目の星は「BiBi」だ。ヘッドシェフのChet氏は、物理学の博士号を持つ異色のシェフだ。しかし本人が強調していたのは知性よりも、むしろ家庭の記憶だった。コンセプトは「二人の祖母の料理」。奇抜な現代アートのような料理に寄せるのではなく、落ち着いた空気の中で、家庭的な温度を保ったまま料理の精度を上げていく。彼は確かにインド系ではあるが生まれも育ちもイギリス人であって、ノスタルジアを探求していると語ってくれた。

最も記憶に残った一皿はハマチと桃を使った、ニンブパニ(インドのレモネード)着想の料理。見た目はセビーチェに近い。するどい酸で締めた魚の輪郭、果実の甘み、冷たさ。砂糖の代わりに桃の甘さで酸味とバランスをとっている。

和牛のステーキを提供していたり、特定の宗教的要請への対応方針も含めて、全体はロンドンの客にとって理解しやすい形式に寄っているように見えた。

ロンドンでは他にもモダン・インド料理店を訪れたが、インド料理から離れようとする遠心力で言えばインドにあるモダン・インド料理店の方がむしろ前衛的に思えた。ロンドンのモダンは、既成のインド料理像や地域の参照を抱えたまま、それを洗練する方向に強く働くのかもしれない。

モダンとはスタイルではなく態度

こうして並べると、モダン・インド料理といっても場所ごとに別の顔を持ち、共通するものがあるわけではない。ムンバイでは多様なゲストの持つ禁忌と嗜好が前提になり、料理は複数の正解として運用される。ヒマラヤでは食文化の環境が前提になり、生存技術としての保存と発酵が中心へ引き上げられる。ロンドンのBiBiでは、既成のインド料理イメージとグローバルな評価が前提になり、家庭の味が洗練されて提供される。

モダンとはスタイルではなく、制約の種類が変わったとしてもインド料理というカテゴリーを壊さずに動かし続ける態度なのだと思う。

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