連載「コペンハーゲンの隣から」#2
春を待ちわび、胃袋を満たす
私が暮らす“コペンハーゲンの隣の都市” マルメでは、頬がつりそうなほどの寒さが続いています。
体の芯まで冷えるこの季節になると、スウェーデンに来る前の冬のことをふと思い出します。
日本にいた去年の冬、偶然の出会いがありました。
当時私は、都内にあるフォーのお店で働いていました。ある日、いつも通り仕事をしていると、窓の外でメニューを眺めている、同い年くらいの二人の姿が目に入りました。海外から来た二人組です。
二人はドアを開けると、入り口に置いてある日替わりのランチボックスが気になったようでそれを眺めながら、私には聞き馴染みのない言葉で話し始めました。耳を澄ませていると、「フィスク」という単語が聞こえてきて、あ、スウェーデン語だ、とはっとしたのです。
「スウェーデンの方ですか?」と英語で声をかけると、やはり二人はスウェーデンから来ていて、東京で日本の文化や日本語を学んでいるところだと教えてくれました。実は私も、これからスウェーデンへ行こうと思っているよ。そう話すと、近いうちにまた会おうとなり、偶然の出会いに心が浮き立ったことを覚えています。
それから日本にいる間、私たちは何度かカフェに行き、お互いの言葉を教え合いながら fika をしました。そしてその二人と一緒に、都内にあるスウェーデンのカフェで初めて出会ったお菓子が、セムラでした。
春を告げるスウェーデンの伝統菓子セムラ
スウェーデンには、古くから Fettisdag と呼ばれる日があります。スウェーデン語で「太っちょの火曜日」という意味で、四旬節(英語でLentと呼ばれ、イースターまでの40日間のこと)に入る前にたらふくご馳走を食べ、これから始まる断食期間に備える日です(キリストが洗礼後に40日間断食したことが由来です)。かつては、断食を前に贅沢なお菓子を思いきり食べ、春を待つ習慣がありました。今年の Fettisdag は、2月17日です。
その日に食べられる伝統菓子が、セムラ。
アーモンドペースト(mandelmassa)と、こぼれ落ちそうなほどの生クリームを、カルダモンが練り込まれたパンに挟み、帽子のように切り取ったパンをのせた姿が特徴です。
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セムラという名前は、ラテン語で「上質な小麦粉」を意味する simila に由来しています。
かつては Fettisdag だけに食べられる特別なお菓子でしたが、現在ではクリスマスが終わる頃からイースター前まで、街のあらゆるベーカリーに並びます。セムラが店先に並び始めると、人々は「やっと長い冬が終わる」と感じ、セムラとともに春を待つのです。
私も、秋が終わる頃から今か今かとセムラが並び始めるのを待っていました。年が明けてからセムラを見かけるたびに心が弾み、気づけばすでに5つものセムラを食べています。
その中で、この冬記憶に残っているセムラが二つあります。
みんなに愛されるやさしいセムラ
まず向かったのは、マルメで最も古くからあるカフェ[HOLLANDIA]。1903年から洋菓子店として、マルメ中心部の Södra Förstadsgatan に店を構えています。賑やかな通りを歩いていくと、「HOLLANDIA」の看板が見えてきます。
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週末の昼下がり、外からはテーブルを囲んで談笑する人々や、忙しそうに働くウェイターの姿が見えました。吸い込まれるように扉を開ける人々の後について、店内へ入ります。
ショーケースにはケーキやサンドイッチがずらりと並び、天井には立派なシャンデリア。赤い椅子と絨毯の店内は、きらびやかでありながら、どこか日本の純喫茶を思わせる落ち着きがあります。
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待ち合わせたのは、二年ぶりくらいに会う友人。お客さんの脚の間からのぞくショーケースの中には、手に取ってもらうのを心待ちにしているような表情のセムラが見えます。迷うことなくセムラとコーヒーを注文し、テーブルへ。
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店内には、お客さんの手元にも、ウェイターが運ぶトレイにも、セムラ、セムラ、セムラ。席に着いて周りを見渡すと、ほとんどのテーブルにセムラがありました。
隣のテーブルでは、大きなカップの紅茶とセムラをそれぞれ前にしたカップルが、帽子の部分を外し、クリームをすくって食べています。以前、東京で初めてセムラを食べたときに、「こうして食べる人も多いよ」と友人に教えてもらったことを思い出しました。
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見よう見まねで、粉砂糖をまとった丸い帽子をそっと外し、指でつまんでクリームをすくいます。少しだけ、スウェーデンの人になったような気分です。
やさしく香るカルダモンのパン生地に、甘さを抑えたふわりと軽いホイップクリーム。フォークを入れると、想像以上にすっと底まで届くくらいの柔らかさです。そこに、しっかりとした食感のあるアーモンドペーストが重なります。
思わず口元が緩む、やさしい甘さ。子どもの頃、週末に母と一緒に作ったお菓子のような、懐かしさのある味です。このセムラは、そのように洗練されすぎていないけれど、誰かの寄り添いが感じられる味で、ほっとしました。
友人と話をしながら、セムラを囲んでゆったりとfikaの時間を過ごしました。
暖かい部屋、ひとり味わう新しいセムラ
もうひとつは、去年の12月にオープンした新しいお店のセムラです。
セムラは朝9時から売り始めると聞き、まだ暗い中、自転車で家を出ました。馴染みのない道を走ると、それだけで少し新鮮な気持ちになります。10分ほど漕ぐと、住宅地の中に目的のお店[Deg Bageri]が見えてきました。薄暗い中、オレンジ色の看板があたりを照らしています。
扉を開けると、 “God morgon!” (おはよう!)と明るい挨拶。カウンターには、きれいに整列したセムラが並んでいました。粉糖をまとった三角帽子に、今にも垂れそうなホイップクリーム。ケーキのようなセムラを一つ手に取ります。
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“Ha en fin dag” (よい一日を)と見送られ、外に出ると、少しずつ空が明るくなり、近所の人たちがパンを求めて集まり始めていました。オープンして間もないけれど、すでに地元に溶け込んでいるパン屋さんです。
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気をつけて丁寧に家に持って帰ってきたセムラと早速対面します。拳くらい大きなその佇まいは、もはやお祝いの日に食べるご褒美のようです。
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重心のしっかりしたパンを手で掴み、思いきりかじりつきます。鼻にクリームがついても気にしないで食べられるのは、ひとりで食べる時間のよさです。
噛んだ瞬間、カルダモンとセモリナ小麦の香りが広がります。しっとりとしたパンに、きめ細かく軽やかなクリームが溶け合うように合わさります。食べ進めると、奥からアーモンドペーストも現れました。甘いだけではなく香ばしく、程よく苦味があり、さらには強めの塩味も感じます。思いがけない甘じょっぱさがクリームと混ざり合い、思わず顔がほころびます。その途中途中でローストされたアーモンドが転がり込み、食感に変化を与えてくれ、飽きることなく夢中で食べてしまいました。
気づけばぺろりと食べ終えていて、しっかり満たされたという感覚と、一息つきたくなる余韻が残ります。寒そうな窓の外を眺めながら、これほどのセムラを、暖かい部屋でひとりこっそり食べる背徳感はやはり特別です。心が少しだけ緩んだその瞬間、こうし人々は冬をやり過ごしていくのかもしれない、と思いました。
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私は今、スウェーデンに来てから初めての冬を迎えています。
太陽がほとんど顔を見せない寒さの厳しいこの時期、街も人も自然と元気を失ってくるのを感じます。
この凍えるような寒さの中で、どうやってこの季節を越えていこうかと、スウェーデンに来る前から想像していましたが、実際はここまで手探りのまま過ごしてきました。けれど、二つのセムラを食べた時間を通して、自分なりにこの冬との付き合い方が少しわかってきたような気がします。
そんなときに必要なのは、自分をいつもより少しだけ甘やかし、心だけでなく胃袋も満たしておくことなのだと。
だから人々は、春がやってくるまでの間、少し甘すぎるカルダモンパン、少し多すぎるクリーム、少し大きすぎるセムラを求めるのだと思うのです。この時期のスウェーデンに暮らす人々にとっての「ちょうどよさ」は、控えることではなく、春に向けて淡々と身と心を満たし続け、静かに備えることなのかもしれません。
私も春が来るまでとことん太っちょになってやろうという意気込みで、この冬は特別に自分を少し甘やかしながらセムラをたくさん食べて過ごそうと思っています。
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HOLLANDIA
Södra Förstadsgatan 8, 211 43 Malmö
Deg Bageri
Tessins väg 16, 217 58 Malmö
IG: degbageri
2001年生まれ。武蔵野美術大学卒業。北欧の食文化や人々の暮らし方に強い関心を持ち、2025年8月よりスウェーデン・マルメに在住。食にまつわる全てのものが大好き。月に一度スウェーデンでの暮らしについて綴るニュースレターを更新中。
IG @nktmr9