低気圧の日のコーヒーはおいしい 004

クレメダンジュの夢


Yuka KusamaYuka Kusama  / Sep 17, 2025

ライムの塩漬け、スグリ酒、雪の上で凍らせるキャンディ。

― 物語に登場する食べ物たちは、子どもの頃のわたしを魅了した。

最初は絵本だった。『さむがりやのサンタ』という絵本に出てくる、食べ物のイラストが大好きで、何度も何度もページをめくった。サンタのために少女が用意するクッキーとミルク。仕事を終えたサンタが、自分のために準備する温かいごちそう。今も鮮明に覚えている。

もう少し大きくなってからは、活字のなかで出会う食べ物に夢中になった。とくに海外の児童文学に出てくる、見たことも聞いたこともないお菓子やデザートについて、あれこれ空想をふくらませるのが好きだった。

たとえば『若草物語』の“塩漬けのライム”。末っ子のエイミーが虜になるお菓子に、わたしも惹かれた。エイミーが授業中にこっそり口に含むそのお菓子は、一体どんな味がするのだろう。甘酸っぱいのか、塩辛いのか。そういうことが気になって仕方がなかった。

ほかにも『赤毛のアン』に出てくるスグリ酒(アンがダイアナにジュースと間違えて渡してしまうお酒)や、『大草原の小さな家』に出てくる、雪の上で固めるメープルシロップのキャンディ。どれも絶妙に子ども心をくすぐるものばかりで、その香りや味わい、舌ざわりまで、一生懸命に思い描いた。

いまならすぐに「どんな食べ物だろう」と検索できるけれど、当時のわたしはそんな方法を持ち合わせていなかったから、想像力だけを頼りにまだ見ぬ食べ物を夢見ては、胸を躍らせていた。その空想の時間こそが、わたしにとっての幸福なときめきだった。

― そして先日、そんな幸福なときめきを、久しぶりに思い出した。

京都のビストロ『bouillon(ブイヨン)』を訪れたときのことだった。わたしはディナーの最後にデザートを選ぼうと、壁に立てかけられたメニューボードを眺めていた。

グレープフルーツのタルト、プリン、キウイのヴィクトリアケーキ、すもものパブロヴァ、クレメダンジュ。

クレメダンジュ。……クレメダンジュ?

聞き慣れないその名前に目がとまった。一緒に食事をしていたパートナーに「クレメダンジュってなんだろう」と訊くと、「なんだろうねえ」と首をかしげている。

クレメダンジュ、クレメダンジュ。声に出すとたのしくて、ますます気になってくる。正体はわからない。けれど、きっと素敵なデザートに違いない。だって、こんなに美味しそうな響きなのだから。

少しのあいだ、ふたりでクレメダンジュがどんなデザートかを予想しあった。この時点でもう、それを頼むことは決めていた。

わたしの頭の中で「クレメダンジュ」は、どっしりとした濃厚さと、やわらかく溶けていく軽やかさの両方を持っている気がした。根拠はない。声に出したときの響きがそう思わせたのだろう。「ダン」が重たく、「ジュ」が軽やかに溶けていく感じだ。

ふいに、パートナーが「クレメだから、きっとクリームのことだ」と呟いた。たしかに、とわたしも大きく頷く。じゃあクリームブリュレ?いやいや、きっとまた別のデザートだよ……と、ふたりで想像を続けていく。

最終的に、わたしが予想したのは、丸くてやわらかいムース。キャラメルやチョコレートの濃厚なソースが、たっぷりとかかっているイメージ。そして彼の予想は「クリームパイ」だった。

デザートを注文し、美味しいディナーで満たされた胃をさすりながら、まだ見ぬクレメダンジュに想いを馳せる。しばらくして、ついにそのデザートが運ばれてきた。

脚付の白いデザートカップにのっていたのは、雪をすくったような、白くてふわふわしたなにか。さらにその上には、熟した果実を思わせる赤紫のソースが、艶やかにかかっている。これは、わたしの予想が当たった…?とふたりで顔を見合わせる。けれど、それはムースではなくレアチーズケーキだった。艶めくソースはいちじくのソース。

どちらの予想も正解ではなかったけれど、かすかな勝ち星がわたしの手に転がり込んだ。とはいえ、想像した時間ごとたのしく味わえたのだからどちらも勝者だ。

口に運ぶと、レアチーズケーキはふわりと溶けていった。雪というより雲のよう。いちじくのソースからは、夏の終わりと秋の始まりを思わせる香りがした。これがクレメダンジュ。その名前にぴったりのデザートだった。空想を超えた一皿を前に、わたしは子どもの頃のような幸福なときめきを思い出していた。

ただひとつ、子どもの頃と違うことは、そのときめきが空想ではないこと。大人になったわたしは未知の食べ物を味わい、そして舌鼓をうつことができる。空想だけでなく、現実でも。さっきまでは想像の中にあったクレメダンジュの味だって、もう知っているのだ。クレメダンジュ、クレメダンジュ。覚えたての魔法みたいに心の中で繰り返す。

ああ、大人になって良かった。心からそう思った夜だった。

bouillon
京都府京都市左京区吉田橘町34-9(Google Maps
水木定休
IG @bouillon_kyoto

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