和歌山から東京・浅草橋に移転
メキシコ料理[メシカ]第二章のはじまり
浅草橋の路地に、白いタイルが印象的な小さな店が誕生した。大きな看板はない。暖簾もない。けれど、ふと足を止めたくなる不思議な佇まいがある。
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場所は浅草橋と蔵前の間。看板の代わりに出迎えてくれるのは、大きな白いタイル。和歌山の店から受け継いだメキシコのマリアのタイルがアクセントになって可愛い。
5月22日にオープンしたメキシコ料理[メシカ]だ。店内に入ると、壁には色鮮やかなメキシコの皿が並ぶ。その下では店主の山口恭子さんが、黙々と調理をしている。「メキシコ料理ってめっちゃ工程がめんどくさいんですよ(笑)」。
例えば、唐辛子。油で軽く揚げてから水で戻し、ペーストにする。とうもろこしも同じだ。粉にして終わりではない。出汁で練り、蒸し上げ、また別の料理へと姿を変える。「わざわざそんなことする意味あるのかなって思いながら作ってます(笑)」。そう言いながらも、その顔はどこか楽しそうだ。
山口さんがメキシコ料理に出会ったのは、東京でケータリングのレシピ開発に携わっていた頃。イタリアン、スパニッシュ、和食。さまざまな料理に触れるなかで、メキシコ料理だけがどこにも属さない不思議な魅力を放っていたという。興味を持った山口さんは、広尾の老舗[サルシータ]で修業を開始。その後はメキシコにも足を運び、現地の家庭料理や郷土料理を学んでいった。そして、2017年に故郷の和歌山へ戻り、[メシカ]をオープンした。
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4人兄弟の末っ子だという山口さん。普段は一人で店を切り盛りしているが、金曜と土曜はお兄さんや地元・和歌山の後輩たちがサポート。浅草橋でも“和歌山チーム”で店を支えている。お兄さんの誕生日である5月22日に合わせてオープンした。
当時の和歌山にはメキシコ料理店が少なく、タコスでさえもほとんど知られていなかった。
「タコスってタコの酢の物?」
そんなことを言われたこともあるという。今では笑い話だが、当時は本当にゼロからのスタートだった。それでもコロナ禍を乗り越え、6年目を迎える頃には予約で埋まる日も増え、長く続けてきたことがようやく形になり始めていた。だが、その頃、不思議と山口さんの中には別の感情が芽生えていた。
「やり切ったなと思ったんです」
その言葉は、決して燃え尽きたという意味ではない。むしろ逆だった。店は順調だった。予約は埋まり、常連も増えた。メキシコ料理を知らなかった街に、自分の店がひとつの文化として根付き始めている手応えもあった。だからこそ、ふと立ち止まったのだという。
「毎日予約で埋まっているような状態になったんですよ。その時に、なんか潮時なんかなって思ったんです」
普通なら、その先を目指すのかもしれない。席数を増やす。二店舗目を出す。もっと大きな店へ移る。けれど山口さんは、その延長線上に自分の未来を思い描くことができなかった。
「これ以上いく気がしないなと思ったんです」
このまま同じ場所で10年後を迎える自分の姿がどうしても想像できなかった。もともと東京で働いていた時期もある。数年前からは時折東京を訪れるようになり、そのたびに街の持つエネルギーや変化の速さに刺激を受けていた。「もう一回東京で暮らしたいなと思うようになりました」
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壁を彩るメキシコの皿は、山口さんが初めてメキシコを訪れた際に買い付けたもの。東京の店では、この皿を飾ることから空間づくりが始まった。
閉店を発表したのは、店を閉める一年前。突然幕を下ろすのではなく、これまで支えてくれた人たちと最後の時間を共有したかった。
「来られるだけ来てください、っていう感じでした」
その一年は、いつものように食事をする人もいれば、最後だからと遠方から足を運ぶ人もいる。思い出話をする人もいれば、次は東京へ行きますねと声をかける人もいた。
「みんな残念がってくれました。でも、最後の一年は、みんなで味わいながら見届ける時間だった気がします」
8年半かけて育てた店だった。だからこそ、その終わりにも十分な時間をかけた。そして山口さんは、和歌山で積み重ねてきたものを携えながら、再び東京へ向かった。
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店内はカウンター4席と2名がけのテーブル席2卓。決して広くはないが、その距離感が心地いい。あえて席数を絞ることで、一人でもふらりと入りやすい空気が生まれている。
そうして辿り着いたのが浅草橋だった。昔ながらの問屋街の面影が残る一方で、近年は個人店やギャラリーも増え、若い店主たちが新しい文化を育てている街でもある。実際に営業を始めてみると、和歌山との違いは想像以上だった。店の前を通った人が足を止め、中を覗く。満席なら、少し時間を置いてまた戻ってくる。そんな光景が当たり前のようにある。住宅街の一角で営業していた和歌山時代にはなかったことだ。
「東京だなって思いました」。そう言って山口さんは笑う。
取材中も近所の店主の名前が次々と出てきた。昨日はあの店へ行った。この前はあの店主が来てくれた。近くの飲食店が客を紹介してくれたり、逆に山口さんがおすすめの店を教えたり。オープンからまだ間もないとは思えないほど、ゆるやかな繋がりが生まれ始めている。
当初は、もう一度東京に住むことが第一の目的で、店を続けるかは決めていなかったという。それでも[メシカ]を続けた理由の一つに、メキシコ料理をもっと知ってほしいという思いがあった。
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東京では唯一提供しているタコス、カルニータ。じっくり火を入れた豚肉の旨みに、自家製サルサがアクセント。トルティーヤと一体になった瞬間、メキシコの家庭料理らしい慈悲深い味わいが広がる。
和歌山では5種類のタコスを用意し、それぞれ異なる具材や味わいを楽しめるようにしていた。しかし、そうすると5種類のタコスを1枚ずつ注文し、満足して帰ってしまう方が多かった。その光景を見ながら、山口さんはどこか複雑な気持ちになることもあったという。
「もちろんタコスを食べにお店に来てもらえるのも嬉しいんです。でも、タコス以外の料理も食べてほしいという思いが強くありました」
メキシコには、タコスだけでは語りきれない豊かな食文化がある。だからこそ、客がタコスだけを食べて帰ってしまうたびに、「その先にある料理も知ってほしい」という思いが少しずつ大きくなっていった。
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メキシコの食卓ではおなじみのウチワサボテンのステーキ。香ばしく焼かれたサボテンは、シャキシャキとした食感が心地よく、苦みもなく驚くほど食べやすい。
「私はタコスではなく、メキシコ料理を推してるんです」
その言葉は、決してタコスを軽視しているわけではない。その先に広がるメキシコの家庭料理や食文化まで届けたい。そんな山口さんの願いが込められている。だからこそ、東京ではタコスは出さないとまで考えていた。
「東京にはすでに魅力的なタコス屋がたくさんあるので、タコスが食べたい人は、他のお店で食べてもらえばいいかなって」
それでも、和歌山時代から通っていた多くの方から、「東京でもメシカのタコスが食べたい」というリクエストが届いた。その期待に応える形で、現在はカルニータだけ提供している。けれど、その一枚を入口にして、他のメキシコ料理へと興味が広がっていくのなら、それが山口さんにとって理想の形なのだろう。
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黒インゲン豆をじっくり炊き上げたペーストに、香ばしいチップスを添えて。素朴ながら奥深い味わいで、つい手が止まらなくなる定番のおつまみメニュー。
和歌山では、料理名だけでは伝わらなかった。エンチラーダと書いても分からないので、「トルティーヤで具材を包み、ソースをかけた料理です」といった説明を添える必要があった。けれど東京では、知らない料理だからこそ興味を持ち、試してみようとする人がいる。だから、和歌山時代よりもメニュー数を減らした。数を増やすのではなく、その時に食べてほしい料理を丁寧に届ける。季節ごとに内容を入れ替えながら、何度訪れても新しい発見がある店にしたいと考えている。
「東京では自分のやりたいようにやれるなと思っています」。そう話す表情はどこか軽やかだ。
店内を見渡すと、和歌山の店から持ってきた椅子やグラス、メキシコで買い付けた皿が静かに並んでいる。入口の白いタイルもそうだ。どれも特別なものではない。けれど、それぞれに積み重ねてきた時間がある。メキシコの家庭料理もまた同じだ。何世代にもわたって受け継がれてきたレシピ。手間を惜しまない台所。現地で学んだおばあちゃんたちの知恵。
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ローストチキンのカカオソース煮。祝い事の席を彩ることも多い、メキシコの伝統料理。修道女が考案したとも伝えられるその味を、山口さんは現地で出会ったおばあちゃんの味を記憶を頼りに再現。和歌山時代から愛され続ける人気メニューだ。
山口さんはメキシコで出会った人たちの暮らしや価値観、その土地で受け継がれてきた知恵に強く心を動かされてきた。
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写真はメキシコ産ウイスキーのハイボール。ビールやメスカル、テキーラをはじめ、メキシコのお酒を使ったドリンクも豊富に揃う。
「私はメキシコのおばあちゃんたちをすごくリスペクトしてるんです。例えば、怒っている時にサルサを作ると辛くなる。黒インゲン豆になかなか火が通らない時は鼻歌を歌いなさい。とか、そんなことわざみたいなものもあって。そういうところ、めっちゃ可愛いくないですか(笑)」
浅草橋には今日も新しい客がやってくる。カルニータを食べに来る人もいる。ふらりと立ち寄る人もいる。その誰かが、タコスの先にあるメキシコの面白さに触れることができたなら――。[メシカ]が東京へやって来た意味は、きっとそこにある。
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山口さんの料理は、現地のレシピや家庭の味に忠実だ。実際に訪れたメキシコ人から「懐かしい」「おばあちゃんの味みたい」と声をかけられることも多いという。
メシカ
東京都台東区浅草橋3-1-3竹中シャルム1階
水木日 17:00〜21:30 LO
金土 17:00〜22:00 LO
月火定休
IG @mexica.tokyoPhoto by Kumi Nishitani (写真 西谷玖美)IG @___umum
Text by Shingo Akuzawa(文 阿久沢慎吾)