連載「サブカル酒 Sub-Cul-Shu」#6

というわけで僕は今週もきっとこの店にビールを飲みに行く。


Shion KakizakiShion Kakizaki  / Dec 25, 2025

夏の終わりから週1(を超えるかもしれない)の頻度で通っている店がある。都内某所にあるその店は、普通の樽生ビールがひたすら美味い店だ。そういう店は都内だと新宿御苑や中野や銀座~新橋間に多くの有名店があるし、全国的にもいくつか知られた店がある。ただ、この店は頭二つくらい抜けている。とても小さな店でワンオペなので品質管理が行き届いていて、店主のパレットの解像度そのままの高度なビール体験ができる。加えてルールが厳しいのでちゃんとビールに集中できる。そして、近所の常連さんたち(彼らが主要顧客層だ)の店遣いがめちゃくちゃスマートでカッコいい。サッと来てサッと飲んで店主と二言三言交わして帰っていく。例えるなら、僕がかつて働いていたシチリアの田舎の、山奥にあったバールみたいな感じなのだ。空気感が。

 

ある日のこと、「昔のビールのように苦くて滋味深い味ですよ」と言われて出されたのはキリン神戸工場製のラガー樽生。グラスの下を持っておもむろに口に近づける。ロングセラーのジェネリック商品なのでもちろんクラフト系のホップ香はない。泡が消えないように頭を少し後傾させながらグラスの尻を持ち上げるようにして、液体を一口流し込む。おお、美味いぞ。口内に拡がるモルティなフレーバーはキリンに特有のもの。同時にふわりとホップのモノテルペンが顔を出す。そしてウッディでナッティな渋みと苦みのアフター(これはビールの世界では脂肪酸の酸化に由来する劣化臭とされているが、僕は少量であれば好ましい熟成の香味だと判断している。もちろんケースバイケースだが)。おお、美味い(再度)。この味は、四大ビールは言うには及ばず、世界各地でありとあらゆる蔵元の様々なコンディションのビールを飲み漁ってきた僕だけでなく、人生のさまざまなシチュエーションで四大ビールを飲み続けてきた大人たちの味蕾と心にぶっ刺さる味だ。

この素晴らしい一杯は、その数日前にベリーベストなキリンラガー樽生を提供することを謳う某店で、泣きたいほど劣悪なコンディションのジョッキを飲まされた僕の忌まわしい記憶をきれいに上書きしてくれたどころか、ひょっとしたら人生最高のビールなのかもしれない、と思わせてくれたのだった。

 

美味しい酒体験というものはあらゆる酒で得られることは、言葉ではみんな知っている。ただその体験価値は、その酒の社会的ポジションに左右されるということもまたみんな知っている。極端な例でいうとヴォーヌ=ロマネのあの畑のワインや、1994年に登場して以来、日本酒シーンを完全に変えてしまったあの日本酒とか、閉鎖して久しい北関東のウィスキー蒸留所の未開封ボトルとかが、それゆえにそういう値段で取引されていて、それらをこれみよがしに飲める人々と、ストックできる人々がいる。だから客単価の高い店になるほどそういう酒、つまり優等生的な味わいのグランヴァンや超絶クリーンで非の打ち所がない味わいの日本酒や、ラベルだけで威張れる蒸留酒なんかを多くラインナップする。

サブカル酒では別の、しかし同じようなロジックが働いていて、醸造学的に微妙な仕上がりだけどカルトチックなインポーターが仕入れているスピ系ナチュラルワインや、未熟だけどナチュラルゆえに評価される、揮発酸が異常に高かったり発酵不全だったりガス圧が少なかったりするビールとか、とりあえず流行ってるので作ってみました的なクラフトジンやクラフトサケやネオ焼酎や国産ウィスキーなんかが『感度の高い人々』の間で人気があり、そういうラインナップの店にそういう人々が集まる。

 

なにも僕はそういう状況を批判したいのではない。サモトラだってサブカル酒やカルトワインを多く揃えて、そういう人々に唯一無二のペアリングを提供している。飲食店というのがそういうルールで資本主義的に差別化を競うビジネスである以上、そうしないといけないのだ。

ここで僕が言いたいのは、『美』という概念が見る人の脳の中にしか存在しないように、美味しさもまた、体験者の脳の中にしか存在しない、という当たり前の事実だ。ボトルの中にある酒は、あなたが飲むまで美味しいかどうかは未確定だ。それがどんな高価で希少で有名であっても。

 

つまり、酒の造りの良し悪しは純粋に自然科学の問題だが、人が感じる美味しさは常に人文学の問題なのだ。なのに今、多くのメディアが酒を語るときは、プロダクトに固有のふんわりマーケティング用語とちょっと調べれば分かるレベルのブランドストーリーとちょっとアカデミックななんちゃってサイエンスのお話ばかり。そして登場する業界関係者は互いの目線を勝手に忖度して「みんな違ってみんないい」「好きな酒を飲めばいい」という浅薄なバイブスで刹那的に表層的に(そしてできたら日常的に大量に)プロダクトを消費することを勧めている。そりゃそうだ。楽しい飲みの時間にウザい御託など聞きたくないからね。結果、今起きているのは、ただでさえ減っている酒飲み界隈の分断と囲い込み、そして極度のファンサ。だからアルコールマーケットが急速にシュリンクしているのだと僕は思う。

いつの時代も、飲み手に本当に必要なのはサイエンスやマーケティングの言葉ではない。当事者性のある人文学の言葉だ。それは外部からもたらされるものではなく、各々が生きていく中で自分で作り上げるもの。ゆえに質的、量的な差は当然ある。喜劇も悲劇もあるだろう。だが、その物語を形成したそれぞれの人生経験は誰にも否定できないだろう?そうした個々の人生を最大公約数的に抱擁してくれるのは高級な酒でもナチュラルな酒でもクラフトな酒でもないんだな。美味い(←ここ大事)ジェネリック酒なんだよ。

 

だからこの店の四大樽生ビールは本当に素晴らしいのだ。酒のプロも、何か気の利いたことを言いたげな酒ギークも、家の近所だから通うだけのライトな酒飲みも、誰もが意識的にも無意識的にもちゃんとビールの美味しさが分かって、同じ酒で分かり合える(という幻想を抱ける)。好きな銘柄の議論も自由だし、全部正しい主張だ。ここではみんな違ってみんないいのだ。だってここの酒はどれも自然科学的に美味い状態なのだから。そして時に、とてつもなく当たりの樽に出会えるのも醍醐味だ。その時の高揚感は、DRC(なおコンゴでもなく吹田でもない為念)を飲んで感じるそれと本質的に何ら違いはない。日本のメジャーブランドの良心に触れる体験。

 

『現代で最もパンクな行為は、部外者に中指を立てることではなく連帯することなのだ』というポストを先日どっかのSNSで見かけたが、この店のビールはそれを体現しているように思う。その一方で、このパンキッシュな体験を担保しているのが、ここの店主の超絶繊細なパレットである、という点がまた面白い。同業態の他店に行けば分かる。味わいのラティチュードが全然違うから。

市井の人々の日常にスペシャルモーメントをもたらし、あまつさえ同業のプロにパラダイムシフトすら誘発できるスーパー人材が、都市の一隅でピンofピンのジェネリックビールを注いでいる。これは世界に誇れる日本の個人飲食店のすごさの一つだと思う。というわけで僕は今週もきっとこの店に普通の美味いビールを飲みに行く。日田工場製のサッポロ黒ラベルとかをね。

 

ただしこのお店はメディア露出NGなので特に名は秘す。行きたい人は自分で探して行ってみてください。僕に直接訊かれても答えませんので悪しからず。

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